相生市(あいおいし)は、兵庫県の島嶼部を除いた地域の南西部に位置する市である。西播磨県民局管轄地域。1942年(昭和17年)市制施行。
明治期までは瀬戸内海に面した典型的な漁村であった。明治終期に、船の建造・修繕のための施設「船渠」(ドック)が完成した。住民らは「わしらのドック」と呼び、誇りにした。以来、造船業は相生の看板産業として発達し、昭和30年代に年間の進水量で世界首位に立った。播磨造船所、石川島播磨重工業など造船会社名は変遷を繰り返し、現在はJMUアムテックがドックを構える。第二次世界大戦後、大型船の新造が禁止され、一旦は町の灯が消えかかったが、1951年10月18日の捕鯨船団の母船「図南(となん)丸」の進水式をきっかけに再び造船の町として歩み始めた。図南丸は、戦争末期、米軍の爆撃を受け、南太平洋の海底40メートルに沈没。眠っていたものを播磨造船所が引き揚げに成功し、ドックでの改修を担ったものであった。沈没した第三図南丸には完全な図面が残っておらず、実測で図面をそろえるなどした上、連日2000人超が昼夜を問わぬ突貫工事に従事し、クレーンの争奪戦が起こるほど現場は熱気にあふれていたという。播磨造船所の年間売り上げの約半分を要したこの大事業での技術力は、国内外で高く評価され、「図南丸」と改名され、1970年まで日本の捕鯨を支えた。